10代の頃、友が皆、先に進んでゆく...そんな焦りを感じた時期がありました。
そんな夏のある日、祖父(先々代住職)とご縁のあったあるご老僧が、祖父のお参りに訪ねてこられました。
いつも穏やかな方で、感情をコントロールできていない姿など一度も見たことがありません。
お茶をご一緒する時間があり、どうしていつもそんなに変わらずにいられるのだろうと思いつつ、今の心境を少しだけ話してみました。
「そこまで深刻に悩んでいるわけではないんだけれど(本当はそれなりに深刻なんだけど)、自分が取り残されているような気持ちになっている」
と、伝えると、ご老僧は、目を閉じて静かに数秒考えた後、
「それは大変やなぁ...うん...ワシも戦争で7年遅れたわ」
と一言だけ仰いました。
さらに聞き返すことができなかったので、
「やりたいことのやれない回り道の気持ちはよく分かる」という意味だったのか、それとも、
「自分の7年に比べたらまだ大したことない」という意味だったのか、
ただ自分の若い頃を思い出しておられたのか、
また、それ以外の意味があったのかは今でも分かりません。
しかし、私の中ではその言葉の意味よりも、
「人生、7年の回り道をしてもこの様な人になることができるのか。」
という生きたお手本を見せて頂いたこと、それだけで心が軽くなったのを覚えています。
誰かと比べて一喜一憂するのではなく、ゴールはず~っと先だと思えばいいのだなと。
とはいえ、まだ気づいていないことも多く、
「自分にとってはただ不本意な時間でも、その時間から学んだり、そこで成長している部分がある。」
そう思えるようになるのはそれから何年も後のことでした。
それから10年あまり経ち、僧侶として自坊に入山した後、ご老僧に「あのときはありがとうございました。」と御礼を言う機会があったのですが、やはり穏やかに「そうじゃったかのう?」と仰っただけでした。
いまはもうこちらの世界にはいらっしゃいませんが、お四国をご存じの方なら誰でも知っているお寺のご住職をされていた方でした。