コロナウィルス問題で経営状態が悪化し「今までにはなかった」苦しみを感じていらっしゃる方は多いと思いますが、古き伝統や技術を一日でも長く継承している立場の人間にとっては、このような「先が見えない、この先どうなるかわからない」という感情はたぶん昔からよく知っている感情で、今は「それがさらに厳しくなっているな」と感じているのではないでしょうか。
ある業界では機械化が進んで専門的な技能が必要なくなったり、またある業界では生活様式が変わって必要とする人が減ったりなど、様々な理由で見通しが立たない業界はいくつも存在します。
そういう業界にいらっしゃる方は、何年も前から危機感を持ちつつも、自分の生き方や生み出す物に誇りを持ち、日々何かを考えながら時の流れと闘い、生き残りをかけているのだと思います。
寺院も同じです。(宗教者としての生き方の話ではなく、法人としての寺院経営の話です念のため)
葬式不要、墓じまい、地方寺院では過疎化による檀家数の減少など、コロナ以前から危機感は満載です。
ですから、今も「こんなはずではなかった」ではなく「また大きな問題が増えたな」という気持ちで過ごしています。
普段からこの様な状態の業界と、新たにコロナ危機に直面している方々との違いは、
古き伝統や技術を継承しているところは「もう要らない」との闘い
コロナの状況で経営が悪化しているところは「今は要らない」との闘い
でしょうか。
このような「要らない」との闘いの中、心に留めておかなければならないことがいくつかあると感じます。
これはコロナウィルス問題が始まる以前から感じていた危機感、問題点です。
まずは、それが趣味ではなく仕事である以上、「自分たちが大事に思っているものと、世の中から望まれているものが合っているか」を考えなければいけないということです。
職人ならば「腕があるか」ではなく「腕が買われるか」と言ってもよいと思います。
趣味やライフワークならば、自己資金をつぎ込みながらでも続けていくことができると思いますが、それが「経営」であるならば、「なくなったら困る」と思う当事者の気持ちの強さで存続が決まるのではなく、「それがなくなったら困る」と考える、利用する人たちの気持ちの強さで存続が決まるのだと思います。
コロナウィルスに学んだ新しい日常が来たとき、自粛中は「今は要らない」であったはずのものが「もう要らない」に変わっていないかどうかを見極め、状況に合わせて修正を加えていかなければならないかもしれません。
次に感じるのは、同情による支援は長続きしないということ。
同情は「辛い思いをしていること」そのものに寄せる感情ですが、
支援は「辛い思いをしている相手が○○だから」の、「○○だから」に対して行われる行動だと体感しています。
「○○だから」の内容は様々。
普段から培ってきた人間関係がある場合は「今までお世話になったから」など、人情や同情という形で力を貸してくれる相手もいると思います。
しかしながら、人間関係がない場合、「可哀想だから」という同情が理由では、例えばテレビやネットの向こう側にいる、自分が今まで人情で接したことのない相手に支援を求めても、相手にされないか、たとえ支援を受けられたとしてもいつまでも続かないと思います。
もし、見ず知らずの相手が自分に力を貸してくれるのならば、それは、自分のやってきたことが、誰かにとって
「(先述のように)必要なもの、役に立つものだから」
「共感の得られるものだから」
「知らず知らずのうちに勇気や元気を力を与えるものだから」
など、何らかの形で、相手の心を動かしているからなのだろうと思います。
また、同情はネガティブな相手にもポジティブな相手にも抱くことのできる感情ですが、
支援の気持ちは、ダメな理由だけを並べ立てる、「これから」の見えない相手には向けられないように感じます。
(国からの補償に対しては「いかに深刻か」を伝えることも大切ですが…。)
当山も、この様な状況下での住職のできることは本当に僅かなもので、結局は長い間積み重ねられてきた信仰、権現様からお陰をもらった皆様のお力によって支えられていることを実感しています。
そして、最後は「やれることをやれるように進んでいくだけ」という所に落ち着きます。
「あとは、本尊様に決めて頂きます」という気持ちで…。