真言密教の大切な教えの一つに「三業(さんごう)を清浄(しょうじょう)にする」というものがあります。
私たちの行いの全ては、身業(しんごう=行動)、語業(ごごう=言動)、意業(いごう=心のもちかた)の3つから成り立っているとし、それぞれの今までの行いを反省し懺悔し、これからも正しい行いを続けていくというような意味です。
今回は、語業について思うところを…。
相手を傷つけるような言葉は吐かないに越したことはありませんが、人間である以上抑えが効かないことだってあります。
しかし、言葉で相手を傷つけてしまった時、それを反省したならば、行動と気持ちだけではなく、はっきりと言葉でもリセットする勇気を持たなければならないと思います。
感情に支配されて、勢いで相手を傷つける言葉を吐くことは臆病者でもできますが、冷静に戻った時、「行き過ぎ」を口に出して謝ることは勇気がないとできません。
時と共に「無かったこと」にできるのは傷つけた側だけで、言われた方の気持ちは色あせません。
だからこそ、語業を清浄に誠実に生きるためには、
・言葉を選ぶ理性を持つ
・もし感情に任せて言い過ぎてしまっても、その過ちを取り返す勇気を持つ
という姿勢が必要なのだと思います。
中には、言葉にすることが苦手な人もいらっしゃるかと思います。
しかし、「言わなくてもわかるだろう?」と、態度の変化で相手に気付くことを願うのは、相手に「私の空気を読んで勝手に理解しろ」といっているのと同じことです。
こういうことが繰り返されれば、親子の関係ならば、そのような親に育てられた子供は、「親の顔色を読むことが上手になり、いつ怒られるかもなぜ赦されたのかも解らずにビクビクしている自己評価の低い子」に育ってしまいます。
大人同士の関係なら、時とともに表面上は修復できたように見えるかもしれません。
しかし、最後にいわれた言葉は、その人のメモリーに最新の上書きのままで残っており、何かのきっかけで当時の感情がよみがえることだってあります。
他の二業を清浄にしても、残りの一業を避け続ければ、その分だけ罪障が積み重なっていきます。
怪我をして血を流している相手に必要なのは傷薬や包帯であって、風邪薬やご機嫌取りのお菓子などは、本当に必要なものではありません。
「言い過ぎた、本心ではない、悪かった」を言わないで済ませようとする努力は、相手を思いやる努力ではなく自分が逃げるための努力です。
正面から向き合うことは苦しいこと。
心にゆとりを持てない状況の方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、例えできなくても、忘れてはいけないことだと思います。
もちろん、一方的な場合ばかりではなく「売り言葉に買い言葉」で双方が汚れた言葉を吐くこともあると思います。
双方が本心以上のことを言ってしまった場合は、お互いが歩み寄る勇気が必要です。
そして、歩み寄り、赦しあうためには、「自分が言い過ぎたように、もしかしたら相手も言い過ぎただけかもしれない」と相手の気持ちになって考えてみることも大切です。