真言宗の在家の方のお勤めの最初の方に、三帰、三竟というものがあります。
三帰(さんき)
弟子某甲 尽未来際 (でしむこう じんみらいさい)
帰依仏 帰依法 帰依僧 (きえぶつ きえほう きえそう)
三竟(さんきょう)
弟子某甲 尽未来際 (でしむこう じんみらいさい)
帰依仏竟 帰依法竟 帰依僧竟 (きえぶっきょう きえほうきょう きえそうきょう)
お家で毎日仏壇を拝まれている方、巡礼に出られている方には馴染みの深いものです。
三帰は「仏さまの弟子である私は、いついつまでも仏さまに帰依します。仏さまの教えに帰依します。教えを実践する僧侶に帰依します。」という意味で、わかりやすいと思います。
しかし、次にお唱えする三竟については、なかなかイメージが湧かないという方が少なくありません。
「竟」には「~し尽くす」とか「きわまる」という意味があるので、「竟」がつくことにより、より深い意思や覚悟があるということは想像できます。
「仏さまを信じ抜きます」とか、「すでに信じ終わった」という訳(やく)でも何となくは理解できるのですが、三帰の方にも「未来祭(いついつまでも)」という言葉が入っているので、正直私もどの辺が違うのかを説明しろといわれても、すっきりお答えすることはできませんでした。
最近、ふと思いついたことがあります。
「小学校の夏休みの宿題の日記がめんどくさいので、先に未来日記をまとめて書いておいて、その日記通りの一日を送っていく。」というネタ話がありますが、もし「書いてしまった以上は必ず未来がその通りになってしまう日記」みたいなものが本当にあるとどうでしょう?
人間、約束をする以上は、守ろうという気持ちはあります。
しかし、世の中何があるかわかりません。
思いもよらない事態が起これば約束を果たせない場合もある、そう考えるかもしれません。
ですから、書いたことが必ず起こる日記に書き込むということには、もう一つ上の覚悟を迫られると思います。
これによって「未来への意思表示」よりもさらに強い「未来の決定」が行われるわけですから。
こう考えた場合、三帰が「未来に対する意思表示」で、三竟が「未来を決定させる覚悟」だとしたら、その違いが見えてきます。
「こう誓った以上は未来も決まっちゃった。」というのは、より深い覚悟ですね。
どんな例外も言い訳も認めない、何があってもぶれない約束、このようなものがあれば究極の信頼が得られます。
結婚の誓いの言葉に「不浮気竟」などというものがあれば、安心するパートナーが増えるのではと思ってみたり…(笑)
(11/11修正)