「取り返し」から「赦し」へ ー 懺悔随喜

一昨年から昨年にかけて、徳島新聞で月一回の連載をさせて頂いていましたが(リンク参照)、その記事の中に「取り返しと赦し」をテーマに寄稿したものがあります。

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これは、

よりよき人間関係を維持するには「取り返し」のつく行いを。
取り返しのつく行いであれば、「赦し」合うことができる。

という趣旨のものです。

しかし、今の世の中に感じることは、赦すことが下手なのでは?ということです。
取り返しのつくような過ちだと思えるようなことでも二度と浮き上がれないように相手を追い詰める、
ことある毎に引き合いに出し、「思い出し怒り」をしながら謝罪を求める、
そんなことがあちこちで行われているように思えます。

手を緩めると今度は自分が追い詰められる、そんな恐怖からでしょうか…?
(いじめに荷担する心に通じるものがある気がします。)

それとも、どちらが上かはっきりさせるためにとことんまで追い込む、いわゆるマウンティングを行っているのでしょうか…?
(モラハラ、パワハラの心に通じるものがある気がします。)

赦されたことのない子は赦さない人に育つ、そして、赦さない人は赦さない子を育てる。
そんな連鎖が心配でなりません。

ハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」という言葉は、子供の頃は野蛮な言葉だと感じていましたが、「相手に与えられた苦しみ以上のものは与えずに赦す。」と考えてみれば、「倍返し」に比べてはるかに理性的にさえ聞こえます。

一発殴られたら、何発殴り返してもいい権利をもらったと勘違いしている人は、一発目まではまだ「報復」だとしても、二発目以降は「自分の方が新しく罪を犯している」ということに気づいていないのだと思います。
相手に同じ思いをさせた時点で一方的な被害者ではなく加害者と同じ土俵に立ち、過剰防衛に至っては、被害者と加害者は逆転しています。
それなのに、いつまで被害者のつもりでいるのでしょうか...。
また、それに便乗する「実際に面識のない人たち」は、安全なところから人を傷つける怖さをどれだけ理解しているのでしょうか...?

真言宗でよく唱える「五悔」の五番目「至心廻向」は、「懺悔随喜(さんがいずいき)勧請福(げんせいふく)」という言葉で始まります。

今まで積み重ねてきた罪業を仏様に懺悔し、それにより救われたことを仏様に感謝し心から喜び、この喜びが一切衆生に行き渡るように願う

というような意味ですが、仏様の大きな赦しを感じます。

私たちの関わりも、自身においては反省しないうちから喜ぶことなく、相手においては一生懺悔させ続けて喜ばせないということなく、懺悔の心を忘れずに赦し赦されながら心豊かな日々を送っていきたいものです。