私が大切にしている仏教の言葉の一つに、「令法久住」という言葉があります。これは、「未来永遠にわたって素晴らしい法を伝えていく」という意味です。
理想としては、正しいことをそのまま伝えていくことができれば一番なのですが、時と場合によっては、正しさだけを訴えるのではなく、柔軟に対応しなければならない場合もあります。
しかし、その場は柔軟に乗り切れたとしても、「これでもいい」と思ってやったことが、「これがいい」と受け取られて伝わってしまったとしたら、その行いは、正しいものとして受け継がれてしまいます。
このような「これでもいい」が、正しいこととして伝わってしまう原因はいろいろあると思います。
・良かれと思って
・面倒だから
・間に合わないのでとりあえず
などなど。
例えば、真言宗では、お仏壇は部屋の北に安置し、南から北に向かって拝むのが通常です。相談を受けた場合、基本は「お部屋の北側に安置してください」とお答えするのですが、お部屋の入り口などの間取りの都合上、必ずしも思った通りにならない場合もあります。
そういう場合は、普段の生活のことも考えて、例えば「このお部屋なら、西向きでもいいですよ」とお答えする場合もあります。
しかし、ご説明をしておかないと、その方が「住職が西向きと言った」ということだけが心に残り、それを広めてしまい、いつしか、「お仏壇は西向きがいいのだ」ということになってしまうかもしれません。
この場合は、「良かれと思って」ですね。
このように、古くからの慣習や伝統を護り続けるということは、決して簡単なことではありません。
正しいことをそのまま伝えていくためには、柔軟な対応をしたあと、どんなに面倒でも、「本当は、こうなんだけど」という言葉を必ず付け加え続けること、それが、ゴールのない、いつまでも続く伝言ゲームを、より長く、正確に伝え続ける方法の一つなのかもしれません。