「相手の気持ちになって考える」ことが大切と、よく言われていますが、
「こんな時、もしも自分が〇〇さんなら…」と、
「もしも〇〇さんが自分なら…」では、
時として、全く違う答えになることに気づいていない人が多いと思います。
そして、本当に「相手の気持ちになる」ということは、そのどちらの考え方でもなく、
「こんなとき、〇〇さんは、〇〇さんとして、どうするのだろうか」と、
自分を絡めずに考えられることだと思います。
これは、プロファイリングにも共通するのではないかと思います。
例えば、犯罪を犯したAという人に対し、
まず、「もし私がAなら」と考えた場合は、「私ならそんなことはしない」でおしまいになるかも(笑)
これは、相手の気持ちになるのではなく、相手の立場になった自分の気持ちが分かるだけ。
「気持ち」と「立場」は違います。
次に、「もしAが私なら」と考えた場合も同様に、自分の世界(立場)に相手を引き込んでしまうので、Aという人間を取り巻く環境や、Aという人間が形成された歴史的背景など、様々なものを読み取ることはできません。
「Aという人間をAの世界(立場)そのままで理解する」ことができて初めて、Aが何を考えどのような行動をするのかが見えてくるのではないかと思います。
このように、自分と相手の間には、何パターンもの見方が存在します。
自分の考えを伝えることは大切ですが、相手のものの考え方によってどういう伝え方が良いかが変わってきます。
ですから、まずは相手を理解することが対機説法の始まりです。
そのためには、
「自分が嫌だから相手も嫌だろう。」などと、自分の物差しで人を判断するのではなく、
「自分は嫌いだけど、相手は好きかもしれない」などと、相手の話にいちいち自分を引き合いに出す必要もなく、
「自分の好き嫌いに関わらず、これが嫌いな人がいる。」という考えを持つこと。
それが、相手を相手のままで理解できる方法なのだと思います。
私たち宗教家は、誰かの気持ちに寄り添うことが生き方の一部ですが、それを生き方にしていない方にとっては、自分だけが相手を理解する一方通行では寂しさを感じることもあるかもしれません。
自分が相手の気持ちになれるだけでなく、身近に「自分の気持ちになってくれる誰か」がいれば人生は豊かになります。
そのような誰かは、家族、パートナー、友人に限らず、お互いの「理解者」です。
自分だけや相手だけの一方通行ではない「双方向の理解者」、そういう方に一人でも多く恵まれることをお祈りしています。
(令和2年2月8日一部加筆)