終活考(二)

今回は、終活の落とし穴というか、あまり気付かれていない部分について書いてみたいと思います。

今の終活では、遺言エンディングノートで遺された方に対する希望を伝えています。
これについては、財産分与やお葬式のスタイルなど、一つ一つ完結していくものであればその希望は叶うかもしれませんが、「この先ずっとこうして欲しい」というような、何代も続く継続する希望は叶わないと思っておいた方が良いです。

そういうお願いをする方によく申し上げることは、

「あなたは三代前のご先祖のことをよくご存じですか?その方の遺言を知っていますか?」

ということです。そして、

「もし知らないなら、そのご先祖同様、あなたの遺言も三代後の子孫には忘れられます。」

と続けます。

お墓を例にとってみますと、もし、昔のご先祖様が、「私が死んだら、生まれ育ったこの土地に眠らせて欲しい」という遺言を残していたとしても、墓の移転や墓じまいをした時点でその遺言は破られています。
実際この地方でも、「墓寄せ」と言って、ご先祖様の数多くの個人墓を、一基の先祖代々墓にまとめる依頼は年に何件もあります。
その中には「一緒の墓に入りたくない」と思っていた方もいるかもしれません。

また、「私の遺骨は海に流して欲しい」と希望され、散骨を済ませた後でも、子孫の誰かが、何らかの理由でお墓を作りたいと思うことだってあるかも知れません。
実際、「お墓がなく、供養していない先祖がいるということが不安だ」と相談に来られる方もいます。
もし、何らかの理由でお墓を作る場合は、遠く戦地で亡くなった方のお墓が存在するように、真言宗では「開眼作法」という方法によって、お骨がないところでもお位牌、お墓、供養塔を作ることができるので、散骨の遺言虚しくお墓が復活することだってあります。

お墓やお位牌というものは、遺された者が想いを届けるための窓口である以上、どう拝みたいかという、遺された側の希望が優先されていくのが自然です。

継続していく遺言は、ご自身と直接繋がっていた方が生きている間は、まだ叶えてもらえるかもしれませんが、直接面識のない子孫に代替わりしていくと、徐々に忘れられていきます。
もし、それでも自分の願いを代々伝えてもらいたいなら、それを個人の願いとせず、次世代の方との共通認識として受け次いでいくことです。
例えば、「どのようなお祀りの仕方がよいか」を、遺言を残す相手と話し合い、遺言を残された相手もそれが良い方法だと思って、さらに次世代に繋いでいくことができれば、代々受け次いでいくことも可能かもしれません。
このように、お墓、そしてそれだけでなく生死観について、家族でのコミニュケーションをとり続けていくことで、その家のスタイルや伝統が生まれていきます。

最後に、散骨の話が出たついでに、川の向かいのお寺の先代住職が、生前仰っていた話をご紹介したいと思います。

「最近は、散骨、散骨って言うけど、火葬された骨なんて、全部拾えとるわけがないのに。
 取り残された分は、みんな散骨されとる。」

・・・これを聞いて、はっと気付かされたというか、これまでにないほど脱力した覚えがあります(笑)
そして、お骨って何だろう、お墓って何だろう、大切にされている本当の理由は何だろう、などということを、もう一度考えるきっかけとなりました。
ご参考までに。