政治と宗教のアプローチ

2005年、当ブログを始めた頃に選挙について書いたのを思い出しました。

投票日(2005年9月12日)

オボウサンになることを出家、出世間と呼びます。
確かに、昔、その言葉通り、家を離れ、一般社会の枠を離れ、とらわれずに生きていた時代がありました。
守るべき法は、その時代時代に作られた法律ではなく、古(いにしえ)より受け継がれてきた法(仏法)でした。
しかし今の日本では、オボウサンも国民の一人です。
義務教育や公共サービス、その他沢山のご縁を社会から受けて生きてきた社会の一員です。
ということで、今日は朝早くから選挙に行ってきました。
色々な考えを持っている人がいるとは思いますが、個人的な考えとしては、選挙権を有しているという「」を持つ以上、「投票するという行動」と、「棄権するという行動」、どちらの「」も、何かの影響を与える「」となるのであれば、投票して関わった方がよいのだろうなと思っています。

10年以上前、こんなことを書いていたのだなと懐かしく思います。
今もこの考えはあまり変わっていませんが、選挙の時期になると、政治と宗教について何かしら考えてしまいます。

政治も宗教も、より良き世を願う気持ちは同じかと思いますが、そのアプローチの方法は異なります。
政治は民主主義のもと、多数決で、「より多くの人が願う方」を実現させるという方法を採ります。
これに対して、宗教のアプローチは、多数派、少数派に関係なく、個人に向き合い、全ての人々に「安心(あんじん)」を与えていくことです。
真言密教も、お大師様の「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば 我が願いも尽きん」(虚空が尽き、衆生が尽き、悟りが尽きるまで、私はずっと願い続けたい=全てのものを救うまで私の願いは尽きることはない)のお言葉にあるとおり、一切衆生の救済を説いています。
(本当に宗教を必要としているのは多数派よりむしろマイノリティーの方かもしれませんね…。)

相反する正義、立場がある場合、どちらを選んでも手放しの正解とはなりません。
そのような場合、宗教者として取るべき行動は、どちらかを選ぶことではないと感じます。
仏教者にできることは、慈悲の心など、自分が仏教から学んだ、「人として大切なもの」を双方に説き、結果どちらになろうとも、その結論自体が心豊かなものになるよう、双方のクオリティーを高めることなのではないかと考えています。

純粋に宗教者としてのみ生きられるのならば…という話ですが^_^

もちろん、一国民として今回も期日前投票に行ってきました。念のため…。