「安心」は一般的に「あんしん」と読むと、心の落ち着いた状態のことです。
仏教的に「あんじん」と読むと、迷いのなくなった安らぎの境地となります。
どのような宗教も最も重要な目的は心の安らぎを与えることですが、宗教によってスタイルは様々だと感じます。
その中で、正しい宗教者の目指す安らぎは、それに出会った方が出会う前より強くなれるものであるべきだと考えています。
安らぎというものは他から全て与えられるものではなく、本来自分の持つ良さに気づくものであり、それによって今まで以上に心豊かに強く生きていけるものだと考えています。
しかし、残念ながらこの世の中には、関わることによって人を弱くする宗教や、教義は正しくとも間違った関わり方によって相手の心を弱くする宗教者がいます。
まるで薬物の禁断症状のように、それがなければ不安になってしまう状態、すがらなければ生きていけない状態というのは、その宗教を知ったために、気がつけばそれまでよりも不安定な弱い人間になっているということです。
もちろん、自分の弱さを見つめることは大切なことだとは思いますが、宗教は弱さを受け入れ前に進むためのお手伝いをするものであって、その弱さを追い詰め宗教に依存させるものであってはなりません。
仏教の教えでは、この世界の全てのものに、ほとけになれる可能性(仏性)が宿っていると説かれています。
ダイヤの原石と同じくそれを磨くことによって本当の輝きを見いだせるという考え方です。
数多くの宗教が、どんなに信仰しても神自体にはなれないという考え方をとる中で、仏教は誰にでもほとけになる可能性を説いている宗教です。
だからこそ、仏教はそれに出会えたものが、出会う前より強く心豊かになれる宗教でなければならないと考えています。
何年も前「宗教をもつということ」でも書きましたが、宗教とは教えそのもののことだと考えています。
ですから、個人的には「宗教に入る」という言葉はおかしな言葉だと思っていいます。
宗教を信じると言うことは、「宗教に入る」ではなく、「自分の宗教(観)を持つ」ということだと思っています。
そして、その宗教観は、それに出会うことにより強くなる、本物の安らぎを得られる宗教観であって欲しいと考えています。
(もちろん、それが真言密教であり、お大師様の教えであればこれほど嬉しいことはないのですが^^)
ここまで述べたことは、今の言葉で言えば、自己評価(または自己肯定感、自尊感情)を上げていくということになるのでしょうね。
宗教に限ったことではなく、親子の関係でも学校教育でも男女の関係でも、「自己評価」を高めると言うことは大切なことです。
相手の可能性を摘んでしまうような心を折る言葉ではなく、厳しくとも信頼関係に基づいた言葉を伝えることのできる親や教師。
「貴方がいなければ何もできないダメな人間だから」という共依存の関係ではなく「貴方がいることで強く優しくなれる」と思えるようなお互いを高めあうことができるパートナー。
そういうものに巡り会える方は本当に幸せだと思います。
「安心」を与える関係、大切にしたいものですね…。