「ダ・ヴィンチ・コード」(その1)

二晩掛けて「ダ・ヴィンチ・コード」文庫本(上中下巻)、読み終わりました。
いちオボウサンの目線から見た、少々ネタばれ入りの観想をご紹介したいと思います。

以下観想です。(ネタばれ注意)
宗教に関わるには、信仰の対象としての関わり方と、研究の対象としての関わり方があると思います。

「ダ・ヴィンチ・コード」は明らかに後者です。

収集したたくさんのデータを分析して、一つの結論を導き出すのは、学術的探求心、好奇心のある人にとってはとても興味深いことです。
導き出された結論が、定説と異なるユニークな説であれば尚更です。
また、知名度の高いテーマであればあるほど、世間の注目が集まるわけです。

この「ダ・ヴィンチ・コード」で紹介されている説がまさにそれですね。

「イエス・キリストは結婚し、子供をもうけていた。」という考え方は、キリスト教に興味がない人でもびっくりすると思います。

しかし、前者の立場の人間、つまり純粋に宗教を信仰する方にとっては、辛いところがあるでしょうね。
信仰の対象を、人間臭いものにされてしまうことは、敬虔な信者さんには耐えられないものがあるでしょう。

もちろん、この説は数ある学説のうちの一つで、正しくないと考えている人もたくさんいると思います。
文献学というのは、現在あるパズルのピースだけを並べて全体像を想像しているようなものですから。
ピースの並べ方が変われば違う結論が出てくることもありますし、別の新しいピースが見つかれば、当初思ったものとちがう姿が見えてくることだってあります。
長い年月のうちに失われて存在しないピースもあるわけで、完成しないパズルも数多くあると思います。

「ダ・ヴィンチ・コード」に限らず、長い歴史を持つ宗教を研究すると、研究の結果が、喜ばしい答の場合もあれば、知りたくなかった答えの場合もあります。
しかし、それが真実ならば、どの様な真実であったとしても、宗教者としては逃げずに受け止めていきたいものです。

真言宗でも、
「お大師様の四国行脚などの山岳修行は、本当は水銀鉱脈を探すためだった。」
と言う説を唱える人もいます。
もし、それが真実だったとしても、中国に渡るために資金集めやスポンサー集めに努力するお大師様に対して尊敬の気持ちが芽生えるだけで、信仰心は変わることはないでしょう。

また、私自身、某真言系の大学で論文を書いた時、平安時代の密教の次第(しだい:拝み方を書いた書物)を研究していたら、現在、お大師様が書いたと言われている次第が、実は後世の、別の僧侶の作であることを証明する結果となってしまい、複雑な気持ちになったことがあります。
何せ、現存するお大師様の著作が一つ減ってしまったのですから…。
しかし、それも本当のお大師様の著作を明らかにすることに役だったのだと前向きに考えています。

純粋な信仰と研究、まだまだこれからも色々な事がありそうですね。