真言宗御室派のお話-菩提心24号(H24.12.5)-
○真言宗御室派とは
三好郡市には三十六のお寺があります。その内、真言宗のお寺は全部で二十八ヶ寺ありますが、その全てが御室派という宗派に属しています。御室派とは京都の仁和寺を総本山とするお寺の集まりです。皆さんは、高野山が真言宗全体の本山と思われているかもしれませんが、そうではありません。真言宗では、お互いが認め合っている本山は十八あります。仁和寺や高野山も十八の本山のうちの一つです。今回は、三好郡市の真言宗に縁の深い御室派についてご紹介していきたいと思います。
御室派の本山、仁和寺は、仁和四年(八八八年)に、宇多天皇により建立されたお寺で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。また、
「わたしゃお多福御室の桜 ハナは低とも人は好く」
と詠われる、背の低い御室桜(おむろざくら)で有名なお寺でもあります。宇多天皇は出家し法皇となり、仁和寺の第一世の門跡(住職)となりました。これより明治維新まで皇室の出身者が仁和寺の門跡を務め、仁和寺は真言宗の寺院の中でも最高の格式を持つ寺院の一つとして現在に至っています。
○明治維新と御室派箸蔵寺
箸蔵寺は金毘羅大権現様をお祀りしている神仏(しんぶつ)習合(しゆうごう)のお寺です。このようなお寺は現在では珍しいですが、江戸時代までは仏教と神道は結びつきが強く、多くの寺院にお宮が祀られたり神社に神宮寺(じんぐうじ)が建てられたりしていました。 しかし、明治維新で武家中心の世の中から天皇を中心とする世の中へと動き始めると、天皇の力をより大きくするために神仏分離(しんぶつぶんり)という政策が行われました。神道を仏教から切り離し、独立させるという政策です。これによって多くの神仏習合のお寺が解体されました。讃岐のこんぴらさんが松尾寺(まつおじ)という真言宗のお寺から分離され独立したのもちょうどその時です。また、神仏分離の政策により、廃仏毀釈(はいぶつきしやく)という仏教を弾圧する激しい運動が起こり、衰退していったお寺も少なからずありました。
このような時勢にも関わらず、箸蔵寺は神仏習合のスタイルを守ったまま明治維新を乗り越え、現在に至っています。歴史に詳しい方は「どうしてこのようなお寺がつぶされずに残っているのか。」と不思議に思われます。
この理由こそが箸蔵寺が御室派であるということです。当時の仁和寺の門跡は、最後の皇室出身者である純仁(じゆんにん)法親王でした。親王は勅命により還俗(僧侶をやめ俗世間に戻ること)し、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王として戊辰戦争(ぼしんせんそう)で旧幕府軍を討伐する官軍の大将となりました。「宮さん宮さん」の歌で錦(にしき)の御旗(みはた)を掲げる総大将その人です。つまり、新政府側であり、なおかつ天皇ゆかりの方が御室派のトップであったことが、箸蔵寺が神仏分離を免れた大きな理由です。戊辰戦争にかかった莫大な費用の多くは、親王が御室派の寺院から調達したと言われています。箸蔵寺も何らかの形で戊辰戦争に関わっているのかもしれません。現在箸蔵寺には、親王自筆の「金毘羅大権現」の神号がお軸として残っています。
○おわりに
今回は、真言宗御室派についてご紹介しました。真言宗には他にもまだ多くの宗派、本山があります。これが皆さんが属している檀那寺(だんなじ)や宗派のことを知るきっかけになれば幸いです。
詳しくは仁和寺公式サイトをご覧ください。
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