第43号特集.-相互供養の心- (R6.12.1)
以前、徳島県の教育委員を務めさせて頂いた時に広報誌に以下のようなメッセージを寄せたことがあります。
自立とは誰の力も借りずに生きていくことではない。人は一人では生きていない。人類最後の一人となった時、不便と感じたら、それは一人では生きていない証である。自立とは、この世界の一員として世の中の力を借りながら、世の中に対し自分のできることを返していくことである。世界との関わりを学び、人は一人では生きていなかったのだと実感した時、本当の感謝の心が生まれる。「ありがとう」は、わざわざ何かをしてもらった時にだけ思い出す言葉ではない。いついかなる時でも誰かの力を借りていることに気付けば、感謝の心は自然と生まれてくる。子供たちに「生きる権利」を説くのならば、その前にまず「生かされている感謝」を伝えてもらいたい。 (『とくしまの教育』四二六)
このことは、こどもたちの将来だけではなく全ての人にも関わりのあることだと考えています。
もし世の中に自分一人しかいなければ、職業と呼ばれるものは農業であろうが漁業であろうが本来なら自分一人でやらなければいけないことです。
職業だけでなく、家事も育児もその他の衣食住に関することも、何もかも自分がやらなければいけないこと。
職業に就いている人だけを自立していると呼ぶ人もいますが、それだけが特別扱いではありません。
本来やらなければいけない全てのことのうちから一つ(またはいくつか)を職業として選んで懸命にやることにより、残りをやらなくてもいいという幸せな世の中に生かされているというだけのことです。
「専業○○」という言葉は専業農家や専業主婦などの限られたものに使われがちですが、「それだけをやっている」という意味では、ほかの職業でも「専業メーカー」や「専業金融」、職種においても「専業営業」や「専業経理」などと呼ぶことができます。
つまり、この世の中、生きるための全てをやっていない不完全な者同士が自分のやれることをやりながらお互いを補い合って生きているといえます。
私のような専業僧侶が生きることや死ぬことについて心ゆくまで考えることを仕事としていてもご飯が食べられるのは、他の皆様が様々な場所で本来私のやらなければいけないことをしてくれているおかげです。
よく、「人は一人では生きていけない」という言葉を耳にしますが、いけるかどうかではなく、誰もがどうやっても「人は一人では生きていない」のです。
そう考えると、誰もが不完全な物同士、格付けし合って生きることにあまり意味は感じられません。
頑張っている者同士、自分にあって相手にないものを探して攻撃するよりも、自分ができないことを相手がやってくれていることに感謝するほうがはるかに心が豊かです。
仏教では、このような、お互いを讃え供養するということを「相互供養(そうごくよう)」と呼びます。
私たちの世界でも、このようなお互いを思いやり高める心が広がれば、みんなが楽しく穏やかに過ごせる世の中になっていくのではないかと思います。
「他徳(たとく)を高めること即ち自徳(じとく)を高めることなり」という言葉がありますが、誰かの徳を讃えるということは、巡り巡って自分の徳を高めることにつながっていきます。
相互供養の心、大切にしたいものです。
(以上)
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