菩提心39号 -懺悔随喜(さんがいずいき)の心-

第39号特集.-懺悔随喜(さんがいずいき)の心- (R2.12.5)

○はじめに

最近の報道や世の中の風潮で感じることは、「どちらが全面的に正しいか」という観点で答えを出すものが増えているのではないかということです。
しかし、自分が100パーセント正しいという結論を出し、それを信じてしまえば、

「間違っている相手にはどんな手段を使って報復してもかまわない」や、

「悪いことをしたやつには何を言う権利もない」という、

格付けやマウンティングの考え方につながる危険があります。

このような、一発殴られたら何発殴り返してもいい権利をもらったと勘違いしてしまった人は、一発目まではまだ「報復」だとしても、二発目以降は「自分の方が新しく罪を犯している」ということに気づいていないのだと思います。

0か100かで答えを出すということは、「100パーセント正しいなら1パーセントも省みない」ということにつながります。

どちらにも直す部分がある

どちらにも歩み寄れる余地がある

そういう寛容さが削ぎ落とされてしまっているようで心配です。

○懺悔随喜の心

真言宗でよく唱えるお経に、「懺悔随喜」という言葉で始まるものがあります。懺悔随喜には「反省から感謝へ」という意味があり、「今まで積み重ねてきた罪業(ざいごう)を仏様に懺悔し、それにより救われたことを仏様に感謝し心から喜び、この喜びが一切衆生(いっさいしゅじよう)に行き渡るように願う」という仏様の大きな赦(ゆる)しを表しています。

0か100かで答えを出してしまえば、100の方には反省も感謝もありません。
正しいとされた側も、「お互いに反省するところはあるけれども、今回は良い部分が多かった。」という考えを持たなければ、自分を省みてさらに成長するせっかくの機会を失ってしまいます。

人と人の関わりにおいて、自身においては反省しないうちから喜ぶことなく、相手においては一生反省させ続けて喜ばせないということなく、反省と感謝の心を忘れずに赦し赦されながら心豊かな日々を送っていきたいものです。

また、このような0か100かの考え方は、「どちらが正しいか」だけでなく、「どちらの意見を採用するか」にも当てはまると思います。「どちらか一方の手柄(てがら)」ということにこだわりすぎると、「それぞれの良いところを合わせればもっと素晴らしいものになる」という可能性を閉ざしてしまうことになってしまいます。

ですから、なんでもかんでも「白黒つける」ことだけが正解とは限りません。
白黒の間をとって「グレー」というと曖昧にした感が強いので、いっそ混ぜる」にして、赤紫青紫などという結論も大切だと思います。

○終わりに

現在のウィルス拡大の状況の中、自粛のストレスなどで心の色々な部分が知らず知らずのうちに普段の状態ではなくなってしまいがちですが、この懺悔随喜の言葉を心の隅に留めていただき、それぞれが、自身を省み相手を思いやることのできる、和合協力(わごうきょうりよく)の世の中になっていくことを願ってやみません。

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