第16号特集 .あるがままを生きる―法爾自然(ほうにじねん)(H20.12.05)
○はじめに
今回は、「法爾自然(ほうにじねん)」という言葉をご紹介しようと思います。この言葉の意味は「あるがまま」という意味です。あるがままに生きるということは、一見簡単そうに感じますが、実はとても難しいことです。今回はこの「あるがまま」について考えてみたいと思います。
○無い物ねだりは苦しいだけ
人間という生き物は今の状態にすぐ不満を感じ、何かを欲しがってしまう生き物です。
「○○さんは携帯電話を持っているのに、私は携帯電話を持っていないから不幸だ。」
とか、
「○○さんは海外旅行に行ったのに、うちは行けないから不幸だ。」
などです。
しかし、そんな基準で物事を考えると、過去に生きていた人すべては「携帯電話を持っていないからかわいそう」という理由だけで、全員「不幸な人」扱いにされてしまいます。聖徳太子も坂本龍馬もナポレオンもみんな、携帯電話を持ってない不幸な人で片付けられてしまいます。
逆を言えば、もっと進んだ未来の人から見ると、今生きている人たちが、自分がどんなに満足な人生だと思っていても、例えば、「月旅行も行ったことがない」といった理由で、かわいそうな時代の人としか見てくれないのです。今の世界中の人たち全てが「幸せになれなかった人たち」になるわけです。本当に余計なお世話です。
そして、その未来の人たちも、もっと未来の人たちから見ると…。
こうやって考えていくと、どの時代にも幸せな人など一人もいないことになります。
こんな考え方、変ですよね。
お釈迦(しやか)様の時代より、求めるものが得られない苦しみ「求不得苦(ぐふとっく)」は、人間の持つもっとも大きな苦しみ「四苦八苦(しくはっく)」のうちの一つとされてきました。
無い物ねだりは、苦しみしか生みません。最後には永遠の若さ、不老不死など、無理なものを望み続け、たどり着けない苦しみばかりの毎日を送ることになってしまいます。そうやって遠くばかり見て嘆いていると、身近な幸せを見過ごしてしまうのです。
そんなことよりも、
「海外旅行には行けないけれど、私には一緒にご飯を食べてくれる素敵な家族がいる」
というように、「あるもの」に気づいて感謝して生きることの方が毎日を楽しく豊かに生きられるはずです。これが「あるがまま」を受け入れるということなのです。
○「できること」に気付くのも「あるがまま」
こう述べていくと、「あるがまま」を知ると言うことは、「できないことに気付くこと」であると思われがちですが、それとは逆に「できることに気付くこと」という意味も含まれています。
・ある人は、絶対に勝てるはずがないと思っていた相手と試合をしたら、自分がいつの間にか強くなっていて簡単に勝ってしまいました。
・またある人は、「ゴルフなんてスポーツじゃない。」と言っていたのに、今では月に何回もゴルフに出かけるほどゴルフが大好きになりました。
・またある外国人は、生の魚は気持ち悪くて食べられないと言っていたのに、今ではお寿司が一番の大好物になっています。
これらは、本当は自分はできるという「あるがまま」や、本当は好きだという「あるがまま」を知らなかったということなのです。
「私は○○のできない人だから」
と軽々しく口にする人は、本当にとことんまで真剣にぶつかったことのある人なのでしょうか? また、
「他に楽しいことがないから」
などと言って家から一歩も外に出ないでゲームばかりしている子供は、本当に楽しいことがないのか探し尽くした上で言っているのでしょうか?
「あるがまま」を知ると言うことは、自分自身を知ると言うことです。
もちろん無理のしすぎもいけません。
「あるがまま以上」を望む過激なダイエットは必ず反動がくるでしょう。
また、五〇代の自分に、二〇代の時の「あるがまま」を望めば、必ず体が悲鳴を上げるでしょう。
つまり、「あるがまま」を受け入れるということは、本当の自分をよく理解し、それにあった生き方をするということなのです。
○あるがままに生きること
今年の流行語大賞に「アラフォー」という言葉が入りました。四〇代前後の女性という意味ですが、受賞された天海祐希さんは「四十代としてもっと大胆に素敵に生きればいい。」とコメントしていました。
「あるがまま」に生きると言うことは、等身大の自分を理解し、それを楽しみながら生きるということです。
人の数だけ「あるがまま」があります。みなさんも「あるがまま」の自分探しをしてみませんか。
(以上)
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