第15号特集-よく生きること、よく死ぬこと-

第15号特集 .よく生きること、よく死ぬこと(H20.3.15)

○はじめに

人間は生き物です。生き物の「生」には、「生きている」という意味と同時に「生まれる」という意味があります。

私たちは生まれてしまいました。

生まれなければ死ぬことはなかったのですが、一度生まれてしまった以上は一度死ななければならないわけです。

「私たちはどこから来てどこへゆくのか」という問いかけに対し、その答えを知ることができれば、今をどう生きればよいかが分かるのではないでしょうか。

  今回は、この生まれること、死ぬことを、真言密教ではどうとらえているかをお話ししていきたいと思います。

○もとは全て同じ

世の中にはたくさんの物が存在しています。
人間、動物、植物、石、ガラス、空気、水、などなど。

これらのものはいったい何からできているのでしょうか。

例えば、人間は、骨や筋肉、血液、皮膚(ひふ)などからできています。
それらはタンパク質や脂肪、カルシウムなどの分子からできています。
さらに、それらの分子はすべて同じ「原子」というものの組み合わせによってできており、その原子ももっと小さな同じ物からできていることが分かっています。

これと同じように人間以外の全ての物質も、元をたどればすべておなじものから形作られたものです。
つまり、人間も植物も石も、この世にあるものは、全て同じ物からできているのです。
そして、何かのきっかけ(縁(えん))で、違う物として生み出されているだけなのです。

○世界は五大から

真言密教では、このことを、地、水、火、風、空という世界を構成する五つの要素「五大(ごだい)」という言葉を使って説いています。

世の中のあらゆるものは、すべて五大より成り立っていると考えられています。
人間や草木はもちろん、この世界や宇宙そのものさえ、すべては五大で成り立っています。
五大はすべてのもとであり、すべてを形作るもの、つまり、五大こそが最も大切な「ほとけ」そのものなのです。

お葬式や法事の後、お墓に立てる卒塔婆(そとば)には、この五大を表す梵字(ぼんじ)が書かれ、その下に亡くなった方の戒名(かいみよう)が書かれていますが、これは亡くなった方が「五大からつくられたもの」から、「五大そのもの」に戻ったこと、すなわち「ほとけ」そのものになったという意味が込められているのです。

○死ぬということ

このように、すべてのものは五大より形作られ、五大そのものに戻っていきます。

私たちも五大、他の動物や植物も五大、石も五大。
つまり死ぬということは、世界にある物すべてが、同じもの、同じところに戻っていくということです。

自分をこの世に生み出してくれたご先祖様、自分を育ててくれた親、兄弟、恋人だけでなく、自分の仲の悪かった人、殺した虫でさえも同じところにかえっていきます。

少し過激な言い方をすれば、殺した人も殺された人も、いじめた人もいじめられた人も、すべては同じです。

生きていたときの力の強さやスタイルの良さ、地位や名誉や財産も全部、自分の名前さえも「こっちの世界」においといて、裸(はだか)の「心(=魂)」一つで、もとの世界に戻っていくのです。

これが死ぬということなのだと。

○どのように生きるか

このような死を迎える私たちは、どのような生き方をすればよいのでしょうか?

私たちは、「悪いことをしてはいけない、良いことをしなさい。」と教えられながら生きています。

しかし、いったい何が「悪いこと」で、何が「良いこと」なのでしょうか。

法律に書かれてあることさえ守ればいいのでしょうか。
「虫や小動物を殺してはいけない」とは法律に書かれてありませんが、それは「よいこと」なのでしょうか。

また、世界中には様々な国、様々な法律があって、ある国では正しいとされていることでも、他の国では罪になる場合もあります。

このように考えると、すべての人にとっての「悪いこと、良いこと」とは、いったい何なのでしょうか。

仏教におけるこの答えは、「私たちも、ほかの全てもおなじである」ということの中にあります。

私たちは同じ五大より成り立って、心(識)を持ち、また死んで同じものに戻っていきます。

これに照らし合わせると、全ての行いが悪いことなのか良いことなのかが自然に分かってくるのです。

例えば、「悪いこと」であれば、

・環境破壊―自分たちと同じ世界の一部である、自然を傷つけた「心」が、もとの世界に戻っていったとき、その「心」はもとの世界に受け入れてもらえるのでしょうか。

・いじめ・虐待―自分たちと同じ世界の一部である他の「心」を傷つけた「心」が、もとの世界に戻っていったとき、もとの世界に受け入れてもらえるのでしょうか。

・自死―与えられた生を全うせずに勝手に命を切り上げて還っていった「心」は、もとの世界に受け入れてもらえるのでしょうか。(鬱など、自らの心ではなく「病が死を選ばせようとする」症状による場合は一概には言えません。)

・自分本位―我が身や我が子、自分の一族など、自分の周り「だけ」がかわいいと思い、「ほかの全ても同じである」と気づいていない心は、もとの世界に戻ったとき受け入れてもらえるのでしょうか。

などです。

他にも、「不倫」、「食べ物を残す」、などなど、どんなことでも「私たちも、ほかの全てもおなじである」ということに照らし合わせて考えれば答えが出るはずです。

また、「良いこと」ならば、

  ・自分と同じである「他の全て」を大切に思い環境を保護する心

・自分をこの世に生み出してくれた親や先祖に対する感謝の心

・自分もその一部であるこの世界を明るくしようとする笑顔

・自分と同じところに還る、他の「いのち」を頂きながら生きていることに気づいて感謝する心

などなど、「自分は世界、世界は自分」であると感じながら行うことはすべて「良いこと」だと言えるのではないでしょうか。

○おわりに

以上、真言密教における死ぬことと生きることについての考え方をご紹介させていただきました。

いつもよりもさらに難しい内容だったと思いますが、この真言密教の五大の教えが、皆様の「これから」の中に、少しでも心に残れば幸いです。

(以上)

(追記)

「生み出されたもの」から「生み出される元(五大)」に還るという考え方を説明するとき、
粘土で作ったキリンが自分であるとした場合、私はキリンだと思えばいつか形が崩れてしまうけれど、私は粘土だと思えば、キリンになったりゾウになったりしながら形を変えて生み出され、そして元に戻っていくという存在であることに気付く
という例えを用いたりします。
もちろん粘土自体も物質なので厳密には異なりますが、何となくイメージを湧かせるお手伝いが出来れば幸いです。

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