第33号特集.「誰が」から「何を」へ(H29.3.15)
私たちは、物事を判断する時、「誰が言ったか」で判断することが多いと思います。
仏教も、初めはお釈迦様という「人」の教えを聴き、信仰するところから始まりました。
しかし、お釈迦様が亡くなり、導いてくれる人がいなくなると、残された人々は信仰の対象を失ってしまいます。
その結果、月日を重ねるごとに、信仰の対象は「人」から「教え自身」に移り変わっていきます。つまり、
お釈迦様が説いた教え(仏教)というものは、お釈迦様が発明した考え方ではなく、もともとこの世にある真理であり、お釈迦様はそれを発見した(悟りを開いた)方だ
という考え方になっていくのです。
さらには、お釈迦様以外にも真理にたどり着いた仏様がいらっしゃるのではないかという考え方まで生まれ、仏教の世界には、数多くの仏様が生み出されていくのです。
もし、仏教が、お釈迦様の言ったことを忘れないように覚えているだけの宗教であれば、もしかしたら現在に伝わっていなかったかも知れません。
仏教は「誰が説いたか」よりも「何を説いたか」が大切にされ、それを追い求める方々がいたからこそ現在に伝わり、また、多くの宗派が生まれているのだと思います。
私たちは社会に生きている以上、数多くの人間と関わり、さまざまな影響を受けています。
尊敬できる方に出会い、プラスの影響を受けることもあれば、逆にそうでない方からマイナスの影響もあると思われます。
しかし、どんなに素晴らしい人でも仏様ではない限り、欠点もあれば失敗もします。
ですから「○○さんのすることは全部正しい。」と考えると、思わぬ落とし穴に落ちてしまうこともあるかも知れません。
反対に、どんなに嫌いな人、信用のならない人がいたとしても、その人の吐く言葉は全てが間違いということはありません。
もし、「この人の言うことだけは聞きたくない。」などという、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な考え方で、意地になって物事を決めてしまえば、後で振り返ると後悔する結果となってしまうこともあるでしょう。
また、影響を受けるのは、個人だけではなく社会の流れもあります。
今、これが流行っているとか、みんな持っているという理由で何かを手に入れて、後で「何でこんなもの買ったのだろう」と思う場合もあれば、「これはやめておいた方が良い」といわれて欲しい物をあきらめる、風評被害のような場合もあるかと思います。
このように私たちは数多くの「誰が言ったか」の影響を受けながら生きています。
今回の話は、「他人を信用するな」という話ではありません。
人に信頼されるということは素晴らしいことですし、信頼されるような人間になるという生き方は大切です。
世の中の情報についても有意義なものは数多くあり、利用すべきだと思います。
ですから、本当に大切なことは、誰が言ったか「だけ」で物事を判断するのではなく、最終的には「自分の力」で判断することです。
もし、決めたのは自分自身ということを忘れてしまえば、どんな失敗も人のせいばかりにする人間になってしまいます。
正しい判断ばかりできる人などいませんが、自分自身の「これから」に関わることにはしっかりと自分の思いを乗せて進んでいきたいものです。
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