菩提心27号-真言僧侶の拝み方-

第27号特集.真言僧侶の拝み方(H26.3.15)

○はじめに

仏教では様々な行事が行われますが、家内安全や病気平癒など、生きている方々に対しての現世利益(げんぜりやく)をもとめるご祈祷は、真言宗や天台宗などの「密教」独特のもので、同じ仏教でも禅宗や浄土系の仏教にはあまりみられません。

今回はなぜ密教にはご祈祷があるのか、そして僧侶はどのような拝み方をしているのかをご紹介したいと思います。

○自力(じりき)、他力(たりき)、自他力(じたりき)

それではまず、密教にご祈祷がある理由からお話ししたいと思います。

同じ仏教でも仏様との関わり方はそれぞれ異なります。禅宗系の仏教は、自分が仏様に近づくために厳しい修行を行う「自力求道(じりきぐどう)」の考え方をとっています。

また、浄土系仏教は、私たち人間が無力であることを知り、ただ仏様の大いなる力を信じ、助けてもらうことが正しいとする「他力本願(たりきほんがん)」の考え方をとっています。

これに対し、密教では自力と他力を併せ持つ「自他力(じたりき)」の考え方がとられます。つまり、仏様が私たちを見守ってくれる「慈悲(じひ)」の力と、私たちが仏様を信じる「信心(しんじん)」の力が一つになった時、大いなる力「加持力(かじりき)」が生まれるという考え方です。(詳しくは『菩提心』第二号「加持とは」をご覧下さい。)

これにより密教では私たちと仏様を結びつけ、橋渡しするための場所と行事が必要となります。
これが密教がご祈祷を行う理由です。

○真言僧侶の拝み方

それでは真言僧侶が仏様と私たちを結びつけるためにどのような拝み方をしているのかを、差し障りのない範囲でご紹介したいと思います。

真言僧侶は衣の中で手を色々なかたちにして印(いん)を結んで拝んでいます。
実は、これは仏様と人との橋渡しを行うために、自分が仏様になりきっているのです。

「自分は仏様になった。仏様なんだからこうするに違いない。」

と、仏様の姿形(身密)やことば(口密)や考え方(意密)のまねをし、自分が仏様として様々な願いを叶えるための橋渡しをしているのです。
これが真言密教独特の拝み方「三密加持(さんみつかじ)」です。

○「なれるかな」ではなく「なっちゃった」から

このような真言宗の拝み方は私たちの生き方においても、参考になる部分は多いと思います。
何か責任のある役を頼まれた時、「自分にはまだ○○するのは早すぎる。そこまでの人間ではない。」と、慎重になることも大事かもしれませんが、時には大胆に楽観的に、「まずはやってみる」ということも大事かもしれません。
そのことによって、それに見合う人間に成長していくこともあります。
背伸びをしていたら、気がついたらそれが自分の背の高さになっていたということもあるかもしれません。

また、何かになりきると言うことは、それが人間相手であれば、「相手の気持ちになって考える」ということにもつながります。
なぜか話がかみ合わない時、相手の立場でものを考えてみることができれば、思いこみによる誤解を解く良いきっかけになるかもしれません。

今回は簡単ですが、真言宗の大きな特徴をお話しさせていただきました。
真言宗のものの考え方が皆様の生き方の何かの参考になると幸いです。

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